東日本大震災が起こった時、私たちはまだコロラドに住んでいました。テレビで繰り返し流れる黒々とした津波の映像を見て、胸を締め付けられるような気持ちになりました。多数の児童が津波に巻き込まれて亡くなった、石巻市大川小学校の悲劇は、まだ記憶に新しいです。
大川小の保護者達が起こした裁判で行政側の敗訴が確定し、市長が遺族に謝罪したことを受け、真相を求めるための対話のきっかけにしたい、と話す遺族の記事を読みました。その記事に対する批判的なコメントの多さに、とても驚きました。「未曾有の自然災害の責任を行政に押しるのか」、「教師も亡くなっているのに」、「勝訴して謝罪も受けているのにいつまで引きずるのか」、といった意見がが大部分でした。
この訴訟に関しては考えるところがあり、幾つかのレポートを以前読んだことがあります。子供達がどのようにして亡くなったのか知りたい、という遺族の要望に対し、行政側が説明を二転三転させたり、聞き取りの記録を隠滅したり、誠実に向き合う姿勢を見せなかったので、裁判を起こさざるを得なかった、ということだったと記憶しています。
こうした不誠実な態度は、何か不都合な真実を隠そうとしている、と考えなければ説明がつきません。保護者達が訴訟を起こした真意は、責任の所在を問う為というよりは、行政側の不誠実さによって死者とその遺族達の尊厳が冒涜されたことに対する怒りにあるのではないか、と想像します。裁判を経ても明らかにならなかった真実を知りたい、という遺族の要望は当然です。
しかし、自己保身に走った人々の口から真実が語られる日は、恐らく来ないのではないかと思います。戦い続けることも、諦めて前に進むことも、同じくらい苦しい。子供を失うだけではなく、どうしようもない理不尽さと戦わなければならなかった方々の気持ちを思うと胸が痛みます。
真実は、目に見えなくても、いつもそこにあります。